ウクライナ情勢雑感

はじめに

 最近クリミア辺りが騒々しい。我々経済学部出身者にとってクリミアは、仲間内で「将軍」と呼ばれていたミリタリーマニアのエンゲルスが『ライン新聞』で当時行われていたクリミア戦争を素材に、その軍事的教養を披露していた土地として懐かしい。大学図書館で『マルクス・エンゲルス全集』の当該箇所をむさぼるように読んでいたことも今ではいい思い出だ。
 元々、というかそう遠くないむかし、クリミアにはクリム・ハン国があった。これはチンギス・ハンの死後、その息子たちに分割された帝国の一部、キプチャク・ハン国(ジュチ・ウルス)の後継国家で、オスマン・トルコの保護下に入った後、ロシアに併合された。であるから、そもそも論としてはクリミアはタタール人のものであるといっていいだろう。しかしそんなそもそも論なんて意味のないことなど、住民投票を近日に控えた昨今では明らかなことだ。

三層の問題

 今回のクリミアの問題の複雑さはその多層の構造にある。クリミアの住民はロシア系が六割を占めていると報道されている。クリミア・タタールはごく少数だと思われ、残り大半がウクライナ系だろう。クリミア住民の多数はロシアへの帰属を求めている。
 一方ウクライナ政府は、「国家」として「領土の保全」を至上命題としている。領土は寸土たりとも渡したりはできないというのが現在の「国家」の当然の思考である。
 これらに対しロシアは軍港セヴァストポリ黒海支配権を、アイデンティティの根幹として絶対に手放すことはしない。ロマノフ朝以来の南下政策で入手して以降、クリミア戦争で、大祖国戦争で、それぞれ激戦も経験した。セヴァストポリ死守はロシアの至上命題である。
 このクリミア、ウクライナ、ロシアの三層の中層以外が同じ結論に達している。

西欧・アメリカの事情

 では、西欧・アメリカはこの問題にどう対応しようとしているのだろうか。リアリズムの話として彼らはクリミアが欲しいわけではない。ロシアが掌中の玉として珍重するセヴァストポリにそう関心があるわけではない。彼らが欲しいのはあくまでも新たな市場、新たなフロンティアとしてのウクライナ本体だけである。むしろ黒海の安定のためには引き続きロシアがクリミアを保持すべきだと考えている。
 一方ロマンチシズムの話として、現在の国際社会には「民族自決」の理念が存在する。これは翻訳の問題なのだが、この「民族」と訳されている言葉は「ネーション」であり、むしろ「人民」や「国民」と訳したほうが実態に即していると思われる。つまり、「そこ」に居住している住民よりも国民を代表する政府の意思が尊重されるということであり、西欧・アメリカとしてはウクライナ政府を支持せざる得ないということである。
 西欧・アメリカにはこのような背反するリアリズムとロマンチシズムの二つの考えが存在するが、外交はリアリズムによって処理される。かつてクリミア戦争ではイギリス・フランスが、第二次世界大戦ではドイツがその攻略に多大な犠牲を払ったセヴァストポリ。その犠牲を今回、理念やウクライナのために支払おうとする者がいるだろうか。アメリカも、自分たちならもっと冴えたやり方ができるというほど傲慢ではあるまい。ロマンチシズムにそった行動はポーズに過ぎない。

ウクライナの事情

 ウクライナ国内はロシア圏にとどまるか、それともEUにつくかで混乱している。私の個人的な意見としてはEUの最後尾につくよりもロシア圏のナンバー2にとどまったほうが国家としてのプレゼンスを示すことができると思う。西側に憧れて時の政権を倒してまで西側についた東欧、中東の国々が思い通りのその後を送ることのできた例はどれだけあるのだろうか。リアリズムの話としてウクライナはEUにとって経済的な植民地である。経済的に成長するかもしれないが貧富の差が拡大し、自律性を失うだろう。我々は東欧諸国の例をすでに知っている。一方ロマンチシズムの話として市民にとって西側はユートピアなのだろう。そして大国ウクライナはロシアから受けていたのと同じ待遇をEUからも受けられると思っているのだろう。ウクライナでデモに参加し、前政権を倒した「進歩的な」市民たちの「こんなはずではなかった」という怨嗟の声が私にはもう聞こえている。この国を良くしていこうという善意から始まったことが、悲惨な結果に終わることもあるということは歴史が教えてくれる。しかし、客観的に、現実的にどうであれ、国家の行く末はその国民が決めるという民族自決の理念は尊重されねばならない。国内政治は時々雰囲気というロマンチシズムに流されることがある。

それぞれのプレイヤーの思惑

 要点をまとめよう。EUはウクライナ本体は欲しいが、クリミアまで手を伸ばそうとは考えていない。しかし民族自決という理念もある。
 ロシアはウクライナ全体を欲しているが、最低限クリミアは死守するつもりである。
 ウクライナは領土の分割を拒否する。
 クリミア住民はロシア残留を希望する。
 これら四者の落とし所は明確だろう。ウクライナの意向を無視し、ウクライナ本体をEUに、クリミアをロシアにというのが現実的な落とし所であり、すでにEU・ロシア共に同じ結論に達していると私は考えている。冷戦の再来とか、アメリカ・西欧の強硬な反対などというのは、ウクライナ住民、自国民、そして国際社会への「領土の保全」は尊重するというポーズに過ぎない。

今後の展開の予想

 ロシアは既成事実を積み上げてクリミアに対する支配力を強化してゆく。すでに三つの陸路は制圧し、自治政府を独立させ、住民投票を行おうとしている。一方アメリカ・西欧は「最大限の努力」をしたという国際世論を作り出し、じきに現状追認に姿勢を転換するだろう。アメリカ・西欧にとってクリミアには争って奪い取るだけの価値はないのである。
 だが、この予想には撹乱要因が三つある。一つはウクライナの偏狭なナショナリストの過激な行動である。ロシアはクリミア確保のためなら、ロシア系住民が多く存在するというウクライナ東部はあきらめるだろう。というより興味自体がないのかもしれない。しかしウクライナナショナリストによってロシア系住民に直接的な脅威が迫るなら、ロシアの出兵もあり得、それがエスカレートする可能性がある。アメリカ・西欧はこの地域には早急に治安維持のために部隊を派遣すべきかもしれない。
 二つめは中国の反対である。政府の主張する「民族自決」と地域住民の主張する「民族自決」の矛盾、対立は、現在の国際情勢下では中国において顕著である。領土の保全を図らねばならない政府にとって、住民の自治・独立・他国への編入は国内にウイグルチベットを抱える中国にとって他人事ではなく、いつ火の粉が飛びかかってくるか恐怖しているのではないだろうか。現在のところ政府首脳部は理性的に行動しているが、「世界秩序の理念」を振りかざして国際関係を混乱に陥れる可能性がある。
 状況を複雑化させる要因の最後はアメリカの傲慢である。近年アメリカは軍備を縮小している。いわば市場が縮小している現状で、軍需産業がこの情勢をチャンスと見て、理想主義の大統領と結託し、大統領にイギリスもフランスもドイツも攻めあぐんだ要塞を、自分たちは容易に攻略できると吹き込んだならば世界は一気に混沌とした状況に追い込まれるだろう。しかし少しでも歴史に学ぶ謙虚さがあるのであれば、このようなシナリオはまず考えられないと思う。
 現在の状況が平和裏に、多くの犠牲があったとしても、多大の流血を見ることなしに解決されるためには歴史に学んだ理性的な行動が求められるというのが、私の雑感である。

二次創作とRPGシステムの変遷―6

6、まとめにかえて

 先日『SW2.0』のリプレイ、『蛮族英雄』を読んだ。この作品は、青年期をアメリカで過ごした日米ハーフのベーテ・有理・黒崎氏の作品で、作中ではマスターをつとめる氏のゲーム性を強調するスタイルを「アメリカ的」と称しており、日本人のプレイヤーのスタイルを協調的な物語生成を指向する「日本的」なのものとして対置している。
 しかしゲーム性を強調するマスターのスタイルと、物語性を強調するプレイヤーのスタイルの相違を、単なる文化的な違いとして片づけるには豊潤すぎるのではないだろうか。
 古くからのRPG愛好者の中には氏のマスタリングのスタイルにノスタルジィを感じるのではないだろうか。氏のやり方は、本論で語るところの古典的アプローチのやり方であり、かつてはここ、日本でも一般的だったやり方なのである。

 ここで旧版の『SW』の視点から本論の要旨をまとめておく。
 前『SW』の時期、RPGには古典的アプローチと世界設定型アプローチのシステムが一般的であった。前者は原初のシステムで、ゲーム的要素を強く持っていた。先に揚げたリプレイにおける「アメリカンな」スタイルである。後者はプレイヤーの操るキャラクターを架空の世界での実際の生活者ととらえ、社会生活のシミュレーションという方向性を持っていた。このほか、物語形成型アプローチのシステムも存在していたが、これは散発的に試みられていた実験的なアプローチにすぎなかったといえよう。
 『SW』は当初古典的アプローチのシステムであった。グループSNEの中には、『グローランサルーンクエスト』という世界設定的アプローチの方向性を模索した痕跡もあるが、この路線は早々に捨てられた。その後『SW』は物語形成的アプローチに転換してゆく。この辺りの事情については本論で詳述したのでここでは繰り返さない。そしてその後の後『SW』の時代は『TORG』の日本的受容によって始まる。

 黒崎氏の驚いた、日本のRPGの協調性をもった物語性の指向は、『SW』が先鞭をつけたとは言え、『TORG』の日本的受容という事情が果たした役割が大きい。
 そもそも本国アメリカでは『TORG』はあまり注目されるシステムではないらしい。日本でも様々な事情から不遇なシステムであった。
 しかし『TORG』はヒーローポイントやらSANチェックやらプレイヤーズコールやら、それまで散発的に試みられていた物語展開型アプローチを意識的に統合した初めてのシステムであった。この『TORG』の物語化のシステムを、都合のよいところだけ、選択的に受容するという、極めて日本的なやり方で受容し、発展させることにより、RPGは氏の驚くような日本化を遂げたのである。

 RPGの日本化とはどのようなものだろうか。それは「歌」の伝統に連なるものだろう。
 短歌は平安時代はいざしらず、その後は古歌を知り、それを活かすという方向に進んだ。落語の「道灌」はそれをよく示している。まだ戦国時代に流行した連歌は古歌の知識を前提として、参加者が一句づつ連々とつなげてゆく遊戯であるが、これなどは本論で論じた展開提案型アプローチとよく似ている。
 短歌も連歌も既にあるものを共通の言語・知識として、そこから模倣にとどまらない新たな価値を生み出すことを最良の成果としている。この伝統の末端に位置するものが日本化されたRPGであり、アメリカでRPGをしてきた目に奇異に映る実態の本質であろう。また、このような連歌的文化創造は角川歴彦氏の言う二次創作そのものではないかと思われる。

 日本人は短歌・連歌のころから「二次創作」を楽しむ文化を持っていた。「二次創作」は本来、日本文化の本流を占めていたが、久しく文化の主流からは忘れられてきた。しかし現在、角川氏の言うように「二次創作」の価値は見直されつつある。
 日本のRPG愛好者はここ三十年近く、集団で協調して二次創作を行う経験と知識を蓄積してきた。この知見は今後の日本社会、日本文化のあり方を占うのに役立つのではないだろうか。
 

二次創作とRPGシステムの変遷―5

5、「プラットホーム」の上で二次創作するということ
 角川歴彦氏はRPGのシステムを「プラットホーム」とし、実際のプレイであるセッションを「二次創作」としている。RPGの楽しみ方の多くは、というか推奨される楽しみ方はシステムを読んで、その出来を楽しむというものではなくて、実際にプレイすることである。氏の言うところである、「二次創作」することこそがRPG本来の楽しみ方なのである。
 良い「コンテンツ」を作り出せばそれで終わりというのではなく、その「コンテンツ」を受容した側が、それをプラットホームとして、コミュニケーションを交わす、その空間を氏は「ソーシャル」と言っている。
 私たちが当たり前にRPGでやってきたことが、現在一般社会に広まっている。
 しかしこの「ソーシャル」と呼ばれる空間はRPGの専売特許ではない。古くはコナン・ドイルの創作した「シャーロック・ホームズ」に対するシャーロッキアンたちの二次創作活動、H・P・ラヴクラフトの創作した「クトゥルフ神話」に対する二次創作、新しくは「ガンダム」に対するMSVという二次創作。
 様々な物語に対する同人活動、文芸作品に対する批評活動なども氏の言う「ソーシャル」という空間、「ソーシャル」という楽しみ方に含まれるものだろう。このように探せばいくらでも見つかる「ソーシャル」に対し、RPGの経験は何か付け加えるべきものを持っているのだろうか。筆者はそれを「世界観のすりあわせ」方の流儀だと思う。
 RPGは複数で行われることが前提となっている奇妙な「二次創作」ではないだろうか。RPGを一種のメディアと考え、自分の「作品」を公開する場としてとらえるマスターにとってもセッションという場はままならないものであって、そこに悲しみも楽しみも生まれるのがRPGである。
 RPGのセッションでは常に他人の眼が存在している。僕たちがRPGにおいて他人のプレイに感心するのは、「魅せる技」というのは、独りよがりの、勝手気ままな、自分の目立つことだけを考えるスタンドプレイではなく、他のプレイヤーのプレイを生かすプレイではないだろうか。僕らはRPGのシステムをプラットホームとしてコミュニケーションを楽しんできた。それは決して排他的なものではなかったと思う。
 「なりチャ」という遊びがある。これは「なりきりチャット」の略でマンガ、アニメ、その他のキャラクターになりきってチャットを楽しむというものである。「なりチャ」はよくRPGとの類似性が指摘されるが、筆者はこれらは全く別なものだと思う。「なりチャ」は特定のマンガなりアニメなりをプラットホームにして成立するコミュニケーションという外見は共通しているが、プラットホームに対する姿勢に大きな差異がある。
 プラットホームに対する解釈はひとそれぞれだろう。筆者はそれを世界観と呼ぶが、「なりチャ」にはその世界観の差異を統合する術が存在しない。相手の解釈を受け入れるか拒否するかの二択しかない。このような「なりチャ」のあり方は特殊なものだろうか。いや現在の日本社会ではこの「なりチャ」のように相手の解釈を楽しめるか拒否するかの二択しか存在しないように思える。
 現在日本では様々な人たちが自分の意見を発信できるようになっている。その中で「批評」の占める割合は圧倒的である。事物に対して実証的に語るのではなく、自分の好悪のみを語る「批評」はWebページにおいてもブログにおいてもツィッターにおいてもあふれかえっている。
 それは批評ではない、批評とはなにかもっと、こう、高度なものだという反論もあるだろうから、ここではあえて「二次創作」と呼ぼう。このような二次創作において、受容の仕方は自分に自分に合うか合わないかでしかない。
 しかしRPGにおいてはプラットホームに対する解釈の差異を前提にしている。ロールプレイ、役割を演じるというのは、そもそも今の自分とは異なる位置から世界を眺めることなのである。
 異なった解釈、異なった世界観をどうすりあわせてゆくか。舞台の設定だったり、物語の類型だったりがすりあわせを行う出発点になる。
 RPG愛好者にとって他者と世界観が異なるのは前提である。異なる世界観の持ち主たちが舞台の設定なり物語の類型なりを取っ掛かりとしてコミュニケーションを重ねて、世界観のすりあわせを行う。その過程で参加者全員による創造が行われる。それが他では得がたいRPGなのではないかと筆者は考えている。
 世界観のすりあわせという努力を行うことでその労力以上の楽しさを手に入れることができる。これは後ろに「かも知れない」とか「こともある」と付けた方が良いくらい実現性が低い。かえって常に上手くゆく訳ではないからこそ中毒性が高いのだと言えるのかもしれない。しかしRPGの醍醐味は世界観のすりあわせにあることは疑いない。予想もつかない展開、奇抜なアイディアがわいてくるというのがRPGではないか。で、こーゆう楽しみを味わいたいのなら、異なる世界観の存在を認め、それを拒否するのではなく、受け入れることから始めるべきだろう。寛容さが必要なのである。そしてすりあわせのために世界の知識やら物語の類型を使ってみたらどうだろうというのがRPGの経験から言える、これからの日本文化への提言である。

二次創作とRPGシステムの変遷―4

4、RPGにおける物語の必要性について
 物語はRPGになぜ必要なのだろうか。
 グダグダなセッションで時間を無駄にしたくないからだろうか。
 目的をもってプレイしたという充実感を得るためだろうか。
 何をしたのか思い出すという、記憶のためだろうか。
 セッションの展開への見通しを得ることで、リソースの使いどころを判断するためだろうか。
 リプレイを書く際の商品的価値(?)のためだろうか。
 マスターの横暴に対する歯止めのためだろうか。
 マスターの自己満足のためだろうか。
 それとも最初から物語があるのが当たり前だったからなのだろうか。
 そもそもRPGにおける物語性とは絶体絶命の危機をダイスの神様の力によって乗り切った、などというセッションの記憶が時を経て人に伝える際に物語となったにすぎないのではないだろうか。古典的アプローチでは言わずもがな、世界設定型アプローチにおいても、積極的に物語を作っていこうなどという方向性を持っていない。セッションの結果、起承転結などの物語の構造のようなものができたとしても、それはあくまでも結果であって、目的ではなかった。物語は当初RPGにおいて、自然発生的なものであったのである。神話や伝説のように、脈絡の希薄な実際の出来事が、何度も語られることによって、前後のつながりが強調されて物語性を獲得していったものだったのである。
 一方物語形成型アプローチでは積極的に物語の構造をセッションの中に取り込もうとする。クライマックスに盛り上がるようにシナリオを組立て、あるいはそのような仕組みをシステムに実装してゆく。
 世界設定型アプローチにおいてPCに求められたのは、その世界の住人としての「らしい」行動であったのだが、物語形成型アプローチにおいては物語の構造的に「らしい」行動である(ちなみに古典的アプローチにおいては合目的的な行動である)。
 世界設定型アプローチのシステムの一つ『ルーン・クエスト』の背景世界である「グローランサ」ではPCは「カルト」と呼ばれる宗教的組織に属し、信仰する神にふさわしい行動が推奨されていた。で、シナリオの目的とカルトの要求との間で葛藤するPCが随所で見られた。まぁ、これはこれで楽しいものだが、セッションのテンポが悪くなるのは否めなく、というかよくグダグダになっていた。
 一方物語形成型アプローチにおいてそのようなグダグダな状態は「事故」であり、それを回避する方策として「物語の形成」をセッションの目的に採用した。
 物語形成型アプローチの作る物語はすでに語られた物語の再現である。偶発的に出来上がった地味な物語ではなく、多くの人々によって効果が実証され、磨かれてきた王道の物語の再現である。フォーリング・ビューティであったり、ボーイ・ミーツ・ガールであったり、ドラゴンスレイヤーであったり、救世の英雄の物語であったりする。それはなによりテーブルを囲むコミュニティが共通の知識として持っているパターンでなくてはならない。さもないと事故を誘発してしまうだろう。このアプローチでは物語はセッションをまとめてゆくために必要な枠組みなのである。
 物語形成型アプローチにおいて物語の主導権はマスターが握っている、必ずしもシナリオに描かれた設計図通りである必要はないが、マスターは展開をコントロール下に置き続けなくてはならない。さもないとセッションは破綻してしまう。PLは円滑なセッション展開と引き換えに、いささかの自由を失ったと言えるのかもしれない。
 さてセッションに積極的に物語性を取り入れることによってセッションにまとまりを作り出そうとする物語形成型アプローチであるが、大別してそれをシナリオの記述によって達成する手法と、システムに物語形成の仕組みを装備する手法とがある。前者は主にグループSNEがとった手法であり、後者は主にFEAR社がとっている手法である。
 グループSNEは水野良氏の小説、『ソード・ワールド』のリプレイおよびシナリオ集などにおいて、セッションその場ではなく準備段階でのマスターによる物語の準備の重要性を説いている。マスターは入念な準備をして、クライマックスで盛り上がるようにシナリオを調整し、プレイヤーに心おきなく楽しんでもらうホストとしての姿勢が求められている。SNEのリプレイはRPG経験者の外にまで広がり、RPGの間口を広げた。
 しかしSNEのリプレイからRPGに入った人々の多くは失望を感じることになったのではないだろうか。読者がリプレイで感じた物語性は「ルール」ブックには記述されていない。ルールブック通りにプレイしても物語は自動的に創起されはしない。SNEは様々な方法で物語性に富んだシナリオの必要性を訴えた。そもそも古典的アプローチにおいても世界設定型アプローチにおいても物語はシステムの内部にあるものではなく、コミュニティが外部から持ち込んだものにすぎない。SNEはそれをシナリオの形でセッションに取り込もうと試みていた。
 多くのSNEのファンがリプレイを楽しみながらも実プレイから遠ざかっていった後も「物語」どうセッションに取り込んでいくかを真摯に考え、一つの解答として作られたのがFEAR社のシステム群である。それまでも物語が自然に形成されてゆく仕組みとしてヒーローポイントやSANチェックなどがあったが、TORGの革命を経て、SNEの出した課題へ答えたのがFEAR系のシステム群である。
 SNEとFEARの相違はシステムの外側にあった物語を内側に取り込む際にとった手法が、シナリオからのアプローチか、システムからのアプローチかの差なのである。
 物語という視点からみると展開提案型アプローチは、意図しない物語が出来上がる世界設定型アプローチというテーゼと、それに対する緻密な物語の形成を目的とする物語形成型アプローチというアンチテーゼの双方を止揚するジンテーゼととらえることができる。
 共通の知識である世界設定を土台にPCが自分のふさわしいことを行う、そしてその結果が全体の物語となる世界設定型アプローチと、共通の物語類型に対する知識を核に物語を展開してゆく物語形成型アプローチに対し、展開提案型アプローチでは共通の知識を必ずしも必要としないところに特徴がある。
 そもそも古典的アプローチ、世界設定型アプローチの登場したころ社会は物語の枠組みに飽いていた。古典的アプローチの売り文句として、自由に結末が決められるとか、主人公の立場に立って別な決断をすることができるなどと言われていなかっただろうか。当時世にあふれていた物語、決まり切ったレール、変更不可能性を感じられた社会秩序……、そのような「決まり事」に飽いていた時代、物語の構造からの「自由」を感じさせてくれたのが古典的アプローチ、世界設定型アプローチであった。
 だが、いきすぎた自由はセッション自体の崩壊をもたらした。その惨状は様々な場で語られているのでここでは繰り返さない。
 何とかセッションに秩序をもたらさなくては……、と、そこで採用されたのが「物語の構造」である。物語は古典的アプローチ、世界設定型アプローチにおいては自然に発生に発生したり、RPGを自らの創作した物語を発信するメディアと考える者たち(水野良氏はそのもっとも有名な人物のひとりだろう)によって語られていた。そのような土壌の上にセッションの混乱を鎮静化するという消極的な理由で採用されたのが「物語の構造」である。また積極的な理由として社会全体の嗜好の変化を挙げることもできる。
 「物語の構造」を成していない物語が「リアリティ」があるのだともてはやされていた風潮がすたれ、「物語の構造を成していない物語」すらも一つの「物語の構造」であるととらえることによって、社会においてもロマンティシズムの復権がなされた。
 サブカルチャーでの例を一つだけあげよう。それまでのロボットアニメの「物語の構造」を打ち破り、「リアル」な物語である『機動戦士ガンダム』を作った富野由悠季監督は、その後も「リアル」な路線、「物語の構造」を成していない路線を追求する。一名「皆殺しのトミノ」とも呼ばれたり、物語展開での必要のない所で主要登場人物を殺したりする。この富野監督の画期として『重戦機エルガイム』と『機動戦士Zガンダム』がある。映画『スターウォーズ』の影響を強く受けた前者は(『スターウォーズ』の存在自体が物語性への回帰を象徴している)、その影響もあって「亡国の王子による王国の復興」という強くロマンティックな物語性を有していた。続く『機動戦士Zガンダム』では、物語性を捨て、「リアル」な路線をとった。しかしその方向性は市場化からの支持されたとは言いがたい。『機動戦士Zガンダム』の失敗は、続編としての難しさ、玩具の売れなくなった市場の変化など様々に語られているが、本論の関心から言えば、社会は『機動戦士ガンダム』以来の物語性の欠如した現実主義から、物語性を重視する浪漫主義へ移行していたのである。この移行はRPGの世界でも時差をもって生じた。
 円滑なセッションの運営すら危ぶまれる行き過ぎた「自由」への反省から古典的アプローチのシステムである『ソード・ワールド』は、その運用の指針やシナリオの記述によりRPGに物語の構造を埋め込んでゆく。SNEには古典的アプローチのシステムを自作の「物語」を発信するメディアとして活用した水野良氏の『ロードス島戦記』があり、「リプレイ」の経験があった。
 『ロードス島戦記』で、あるいは「リプレイ」でRPGに興味をもって始めた方々にとって行き過ぎた自由の結果生じる、パーティ結成時のゴタゴタ(なかなかパーティ結成に至らない)、依頼を受ける受けないのウダウダ(報酬をめぐるアーダコーダ)、行き当たりばったりのシナリオ展開などは時間の無駄にしか感じられなかったのではあるまいか。
 セッションを円滑に進めるためのトラブル回避という理由、そして社会の嗜好の変化という理由により『ソード・ワールド』は物語の構造を導入し、古典的アプローチから物語形成型アプローチへと脱皮したのである。
 その後『TORG』が翻訳され、SNEがシナリオの形でRPGに導入した「物語の構造」をシステムの内部に、メカニズム的に埋め込む手法が紹介された。これにより「ヒーローポイント」が再発見され、また様々な仕組みが主にFEAR社によって開発され、「物語」はRPGにとって不可欠なものとして認識されるようになった。
 かつて愛についてを語り、現在は嫁について語っているある識者は、物語の構造はハッピーエンドのために必要なのだという趣旨の発言をしたことがある。
 RPGにとって物語は、セッションのまとまりを求める内部の事情、物語性の復権が叫ばれる外部の影響があって、その内部に取り込まれた。その結果としてプロローグとエピローグが明確になり、それまでダラダラ続けられることの多かったセッションに明瞭な終わりをもたらした。パッピーエンドをパッピーエンドとして終わらせる手段が発明されたのである。
 物語形成型アプローチにおける物語はマスターとシステムによって用意されるものであった。プレイヤーの側はある程度受け身の立場に立たざる得ない。しかし自ら行動しなければ話が進まない場合も多々あった世界設定型アプローチに較べればセッションのテンポは格段に向上した。物語の構造の自律性に委ねることでセッションが円滑に進行するのである。プレイヤーの世界観は、物語の展開よりもPCの演出に反映され、プレイヤーのリソースもそこに投入された。
 しかしPCの演出ばかりではなく、物語の展開にも積極的に関わってゆくというのもRPGの楽しみの一つである。古典的アプローチ、世界設定型アプローチではシステムをメディアとして自作の物語を展開するマスターがいる一方で、現実の知識あるいは世界設定の知識を駆使したプレイヤーの提案を拾い上げて物語を展開してゆくマスターもいた。後者のセッションは、どちらかと言えばまとまりの欠けたものになりがちであった。どこに着地するかに合意がなく、飽きるまで続くことも多かった。FEARの基準にてらしてみれば事故として退けられるような状況も多々生じた。だがそれが成功した時には自分たちが物語を作り上げたのだという充実感があった。古い愛好者のなかにはその興奮が忘れられずに、時代が変わってもそれを求め続け、他から老害と呼ばれながらも、そのスタイルを変えずにRPGを続けているものもいるだろう。物語形成型アプローチを受け入れられない、嫌悪する方々には、前述のようなセッションを希求する方が多いのではないだろうか。
 だが、プレイヤーの提案をその場で採用し、上手く展開してゆくにはまずマスターの資質が問われ、次にはプレイヤーの協力や相性が、問われるなど人的なイレギュラー要素が多すぎる。
 この人的なイレギュラー要素を極力排し、プレイヤーを物語の展開に積極的に参加させるアプローチが展開提案型アプローチである。
 物語形成型アプローチと展開提案型アプローチの相違の一つはコミュニティ内部の世界観の違いをどう扱うかだろう。前者では演出という面ではPLの世界観は十全に果たされると思われるが、物語の展開という面ではほぼマスターに委ねられているのに対し、後者ではコミュニティの世界観の違いはセッションを通してすりあわされ、その結果として参加者全員の世界観が統合された物語が創られるのである。
 展開提案型アプローチの嚆矢は『トーキョーN◎VA』であると考えられる。このシステムのPCは強力な能力を有しており、物語の構造、物語の自律性すら超越してしまい、容易にマスターのコントロールからはずれてしまう。マスターのコントロールからはずれてしまったプレイヤーたちは落とし所としての、オチの付け方としての物語論を知らず、または無視して、自分の世界観を披露する。『トーキョーN◎VA』の舞台はサイバーパン…、いやアーバンパンクなので、そこには通常の物語の構造など存在しない。こういう事態に対して必要とされるのが、各自の世界観のすりあわせである。
 『トーキョーN◎VA』ではこの世界観のすりあわせが失敗することが多く、関連性のない、各自の世界観の発表会に堕することが多かった。
 展開提案型アプローチと物語形成型アプローチはともに世界設定型アプローチから生まれた双子ということができる。後者は物語を伝えるというメディアとしての性格を、前者は共同で物語を作り上げるという性格を引き継いでいる。また展開提案型アプローチは物語形成型アプローチを分出した世界設定型アプローチの残存とと物語形成型アプローチを止揚したものだとも言えるだろう。
 展開提案型アプローチには物語形成型アプローチで採用された手法が使われている。例えば、今回予告と明確なエンディングというプロローグとエピローグの手法は展開提案型アプローチにおいて世界観のすりあわせの失敗を避け、中途の展開の自由さと、セッションのまとまりを保つ役割を果たしている。このアプローチによって現出する物語は、参加者の世界観のすりあわせの結果、どこかで見たような物語の要素を含みながらも、全体としては全く新しい、参加者全員で編集したものとなるのである。

二次創作とRPGシステムの変遷―3

3、アプローチの違いに見るRPGシステムの多様化の流れ
 RPGの「ルール」すなわちシステムに当初記載されていなかったRPGの核心部分をどのように扱うかについての歴史は通常世代論で語られる。しかし筆者はアプローチの相違によって分類されるべき事柄であって、前世代を乗り越えて新世代に至るという性質のものではないと考えている。
 そこでここでは旧来の世代論の成果を踏まえ、新たな議論の展開を試みたい。
 旧来の世代論で語られていた第一世代、つまり『D&D』や『T&T』に代表されるシステムをまず、古典的アプローチ呼ぶことにする。このアプローチではシステムは基本的に戦闘ゲームであった。しかしその戦闘ゲームには「余白」が存在していた。プレイヤーの扱う「駒」は数値化された、単なる戦力ではなく、「人格」を持った「キャラクター」であり、なぜ戦うのか、なぜ迷宮へ向かうのか。「ルール」の外側に存在する「余白」が重要な意味を持っていた。このシステムの「隙間」こそがRPGの核心部分である。システムの外側の存在をいかにシステムに取り込むか。まず登場してきたのは世界設定型アプローチである。
 これは旧来第二世代としてとらえられてきたシステムを多く含む。背景世界「グローランサ」を擁する『ルーン・クエスト』がその代表である。プレイヤーの「駒」、プレイヤーキャラクター(以下PCと略す)は特別な存在であっても社会に埋め込まれた存在であり、生活者としての性格を持つ。ただ単に戦闘をするだけの存在から、人格を持って世界を生きる存在へとシステム的に変化した。生活者としてPCは戦闘以外の様々な行為をこなすようになった。世界設定型アプローチの一つの指標に「一般行為判定」がある。それまでの戦闘ゲームでは戦闘以外の行為などあまり重視されないものであったのだが、いわゆる「冒険」での使用が想定されない「行為」、ゲーム的に何ら有利不利がもたらされないような「行為」を判定するルールがシステムに持ちこまれたのである。このアプローチをとるシステムとして『アリアン・ロッド』、『迷宮キングダム』、『サタスペ』などがあげられる。
 次に物語形成型アプローチがある。これは旧来は第三世代と呼ばれていたもので、『TORG』から始まったと述べられることもあるが、世代論に立たない本論では『007RPG』までさかのぼってみたい。
 世界設定型アプローチを複数の脚本家が担当する、比較的単調なPCらの生活や回ごとに異なる登場人物にスポットをあてる群像劇を描くTVドラマだとすれば、物語形成型アプローチは巧緻な伏線を張りめぐらせたメリハリの利いた劇場版と言えるのだと思う。その意味でも映画をRPG化した『007RPG』は物語形成型アプローチである一方で、『ガンダム』をRPG化した『ジークジオン』や『ガンダム0079RPG』は世界設定型アプローチなのである。プレイ=コミュニケーションの指針として世界設定型アプローチでは「世界観」を提供し、物語形成型アプローチでは「物語の構造」を提供した。
 『007RPG』は初めて「ヒーローポイント」を採用したRPGだと言われている。「ヒーローポイント」とは失敗を帳消しにしたり、常人には不可能な挑戦を可能とする有限回の能力である。これによって映画のジェームス・ボンドのような活躍が保障されるようになった。
 また、『クトゥルフの呼び声』では「SANチェック」というものがあり、これによって狂気にむしばまれてゆくクトゥルフ神話の小説らしいセッションが自動的に紡がれてゆく。
 加えて通常第一世代に分類される『ソード・ワールド』もシナリオ集、リプレイなどを通じて「物語の構造」の重要性を再三再四述べ、セッション運営の指針としていることから、筆者は物語形成型アプローチをとるシステムの一つだと考えている。
 物語形成型アプローチはセッションを自然かつ強制的にメリハリの利いた物語の構造にはめ込んでゆく。世界設定型アプローチにおいて世界の一住人であったPCは、物語形成アプローチにおいては他の存在とは隔絶した主要登場人物として遇される。
 『ルーン・クエスト』には『RQシティーズ』というサプリメントがあった。PCのセッション以外の日常生活を描いたものである。『RPGキャラクターブック』(現代思想社)も同じようなものである。カメラの回っていない、普段の生活が存在するのが世界設定型アプローチであり、カメラの回っているセッション以外は存在しないのが物語形成型アプローチだということができる。いわゆるFEAR系と呼ばれるFEAR社のシステムの多くはこの物語形成型アプローチである。
 物語形成型アプローチの「物語の構造」はシステムが提供するものであり、その主導権はマスターが握っていた。まぁ、コミュニケーションだからプレイヤーに主導権が移る場合もあるだろうが、下手に渡してしまうとセッションが崩壊してしまう怖れがある。「物語」は強固な意志がないと破綻してしまう。また、プレイヤーの協力も不可欠である。よって物語形成型アプローチの提供する物語の類型は、マスターとプレイヤーを含めたコミュニティの(あるいは「ソーシャル」の、ここではコミュニティという言葉をマスターとプレイヤーを合わせた集団の名称として用いている、「プレイグループ」と同様の集団である)全員がすでに知っている形のものを、マスターがトップダウンで決定することになる。
 物語形成型アプローチは「楽しさは保障するから、物語の展開はマスターに一任する」というコミュニティの合意があってはじめて成り立っている。古くからの愛好者にはPLが自由気ままに行動してセッションがグダグダになって、時間を無駄にした気分となった経験が数多くおありだろう。物語形成型アプローチをとる多くのFEAR系のシステムではそのような状況を「事故」と定義し、そのような事態をおこさないために「PCナンバー制」や「今回予告」など革新的なやり方を採用し、マスターが展開しようしている物語を、プレイヤーが理解しやすいようにしている。
 現在第四世代と呼ばれている、『ヒーロー・ウォーズ』、『Aの魔法陣』などは展開提案型アプローチと呼ぶのはどうだろうか。物語形成型アプローチにおいて「物語」はマスターのコントロール下に置かれており、マスターの構想からの逸脱は、展開がコントロールできる範囲内にあれば認められていたが、コントロールからはずれるとそれは「事故」とされ、セッションは崩壊した。
 展開提案型アプローチでは、マスターの用意すべきシナリオは方向性程度のもので、あとの部分はPLらに委ねられている。それまでのトップダウン型の物語形成を、ボトムアップで行う革命は『トーキョーN◎VA』に始まるのだと考えられる。『トーキョーN◎VA』のセッションは、筆者の周りでは、まとまりがなく個々のPL/PCがバラバラにオレカコイイプレイを繰り広げるものだと揶揄されていたが、それこそがこのアプローチの特質を言い表していたのだと、今になって思う。
 プレイヤーが自分の望む展開を、セッションの中でマスターに伝え、演出を行う。それをシステムに取り込んだのが展開提案型アプローチである。『トーキョーN◎VA』には「判定優先、演出後付け」というスタイルがある。これは逆に言うと判定に成功しさえすれば、あとはどのように演出しようが構わないということである。古典的アプローチ以来、プレイヤーのアイディア、工夫によって判定の難易度が下がるというのは当り前のスタイルであった。しかしこれはプレイヤーの知識が、PCの知識と一体化してしまう、粉塵爆発問題にいたる危険な考え方であった。『トーキョーN◎VA』はこれをエレガントな手法で解決し、展開提案型アプローチシステムの扉を開いた。このアプローチではマスターは「判定」を要求するだけで、その内容はプレイヤーの側が提案することが多い。
 物語形成型アプローチにおいて、そのコミュニティには共通な物語類型に対する知識・理解が求められている。それはマンガであったり、映画であったり、古今の小説だったりする。それが欠けていると「事故」が発生しやすい。
 あるプレイヤーが望む物語をセッションで行うためには事前にその要望をマスターに伝える必要がある。一方展開提案型アプローチではプレイヤー個々がバラバラに自分の望む物語を展開してゆく。前者においてはメリハリの利いた全体の物語を形成するのが目標であるのに対し、後者では個別の物語を融合して結果的に全体の物語とするのが目標なのである。脱物語化あるいはプレイヤー主体の物語化がこのアプローチの特徴である。
 展開提案型アプローチにおいて大切なのは「世界観のすりあわせ」である。個々のプレイヤーがセッションに持ち寄った、バラバラな世界観をどのように融合するか、そのやり方を示唆する役割を果たしているのがプラットホームたる、『トーキョーN◎VA』、『ヒーロー・ウォーズ』、『Aの魔法陣』、『CST』、『シノビガミ』、『ファミリーズ』などのシステムである。
 展開提案型アプローチにおいてマスターの比重は軽くなったと言える。古典的アプローチ、世界設定型アプローチ、そして物語形成型アプローチにおいて、マスターは事前にシナリオを作り(あるいは選んで理解し)、セッションでは結末の付け方を意識しながら、プレイヤーを最終幕まで誘導しなくてはならなかった。展開提案型アプローチではマスターは方向性だけを示しておいて、あとはプレイヤー個々の世界観のすりあわせを眺めておればよい。プレイングマネージャーというか、『モノポリー』のバンカー兼務のプレイヤーというか、ブレーンストーミングのリーダーのような立場がマスターの位置づけである。コミュニティ皆が即興で、より面白くなる方向へ自らの世界観をすりあわせてゆくのがこのアプローチの理想的なセッションである。
 物語形成型アプローチと展開提案型アプローチの中間に位置する存在としてFEAR社の物語形成型アプローチのシステムに搭載される「シナリオクラフト」がある。これは全体の物語と別個にPC個々の物語がダイスでランダムに進められてゆく。物語形成型アプローチでは本来個々の物語が全体の物語に必然的にかかわってゆくようにシナリオが綿密に設計されているのだが、この「シナリオクラフト」ではランダムに発生したバラバラの物語の素材を、コミュニティが知恵を振り絞って全体の物語にかかわるように演出してゆく必要がある。この過程でコミュニティ内での世界観のすりあわせが行われる。
 「シナリオクラフト」の設計者の一人が、展開提案型アプローチのシステムである芝村裕吏氏の『Aの魔法陣』や橙乃ままれ氏の『CST』に造詣の深い小太刀右京氏であることは、そのアプローチに対する深い理解があっての「シナリオクラフト」だと言えるのだと思う。

二次創作とRPGシステムの変遷―2

2、RPGにおける「ルール」の位置づけ
 例えばRPG『D&D』をやるとして、そのパッケージ化されたコンテンツを何と呼ぶのだろうか。現在では「システム」と呼ばれることが多いと思う思われるが、かつては、そして今でもそうであるかもしれないが、それは「ルール」と呼ばれていた。筆者はこの言葉に非常な違和感を感じていた。
 そもそもRPGは他のゲームとは異なりルールという枠のなかで競技するというものではない。にもかかわらず「ルール」という言葉で「それ」は言い表されてきた。
 RPGの成立および上陸当初は概念自体が存在しないのだから仕方のない話ではあるが、その「ルール」という言葉だけが一人歩きしてしまい、プレイを縛るものとして機能していたこともある。古い方なら「ルールに従ってやろうぜ」とマスターに食ってかかるプレイヤーを見たことがおありだろう。
 しかし、RPGというゲームにとっての核心部分は「ルール」には記述されていなかった。RPGに於いて「ルール」は指針、あるいは提案といったものにすぎない。『D&D』の領地経営ルールなどはその典型であった。実際にプレイするにはマスターが埋めるべき「余白」が多すぎた。またRPGの「ルール」は「ルール」からの逸脱を許容し、積極的に勧めさえしている。それはルールという枠のなかで行われる競技とは極めて異質なものである。
 角川歴彦氏はこのRPGの「ルール」を「プラットホーム」と呼んでいる。RPGというゲームは『D&D』なり『ソード・ワールド』なり『アリアン・ロッド』なり『フォーリナー』なりのパッケージ化された「プラットホーム」を土台にして、マスターやプレイヤーの「コミュニケーション」が乗って成立している。いわばRPGというゲームは、プラットホームを元にした二次創作であるというのが氏の見解だろう。筆者はこの考えに強く心を撃たれた。
 RPGはよく悪意に弱いゲームだと言われる。それはペナルティなり排除の機能が存在しないからであるが、なぜRPGにはその機能が存在しないのだろうか。この一点からもRPGのシステムは「ルール」ではありえない。そもそも人間間ののコミュニケーションを誘発するための「プラットホーム」なのだから円滑なコミュニケーションを拒否する者の存在など想定の範囲外なのである。
 また、当初RPGの核心部分は「ルール」の外側にあった。RPGの核心部分は「ルール」のなかではなく、マスターやプレイヤーのテクニックとして扱われていたのである。そしてその後、そのテクニックをいかに「ルール」の内部に取り込んでいくかが模索された。そのための手法、アプローチの違いによってRPGのシステムの分類が可能であると筆者は考える。
 以下、RPGのシステムが、いかにプラットホームとしての機能を高め、いかに当初システムの外側に存在していたものに対応していったかの歴史をたどってみたい。