二次創作とRPGシステムの変遷―4

4、RPGにおける物語の必要性について
 物語はRPGになぜ必要なのだろうか。
 グダグダなセッションで時間を無駄にしたくないからだろうか。
 目的をもってプレイしたという充実感を得るためだろうか。
 何をしたのか思い出すという、記憶のためだろうか。
 セッションの展開への見通しを得ることで、リソースの使いどころを判断するためだろうか。
 リプレイを書く際の商品的価値(?)のためだろうか。
 マスターの横暴に対する歯止めのためだろうか。
 マスターの自己満足のためだろうか。
 それとも最初から物語があるのが当たり前だったからなのだろうか。
 そもそもRPGにおける物語性とは絶体絶命の危機をダイスの神様の力によって乗り切った、などというセッションの記憶が時を経て人に伝える際に物語となったにすぎないのではないだろうか。古典的アプローチでは言わずもがな、世界設定型アプローチにおいても、積極的に物語を作っていこうなどという方向性を持っていない。セッションの結果、起承転結などの物語の構造のようなものができたとしても、それはあくまでも結果であって、目的ではなかった。物語は当初RPGにおいて、自然発生的なものであったのである。神話や伝説のように、脈絡の希薄な実際の出来事が、何度も語られることによって、前後のつながりが強調されて物語性を獲得していったものだったのである。
 一方物語形成型アプローチでは積極的に物語の構造をセッションの中に取り込もうとする。クライマックスに盛り上がるようにシナリオを組立て、あるいはそのような仕組みをシステムに実装してゆく。
 世界設定型アプローチにおいてPCに求められたのは、その世界の住人としての「らしい」行動であったのだが、物語形成型アプローチにおいては物語の構造的に「らしい」行動である(ちなみに古典的アプローチにおいては合目的的な行動である)。
 世界設定型アプローチのシステムの一つ『ルーン・クエスト』の背景世界である「グローランサ」ではPCは「カルト」と呼ばれる宗教的組織に属し、信仰する神にふさわしい行動が推奨されていた。で、シナリオの目的とカルトの要求との間で葛藤するPCが随所で見られた。まぁ、これはこれで楽しいものだが、セッションのテンポが悪くなるのは否めなく、というかよくグダグダになっていた。
 一方物語形成型アプローチにおいてそのようなグダグダな状態は「事故」であり、それを回避する方策として「物語の形成」をセッションの目的に採用した。
 物語形成型アプローチの作る物語はすでに語られた物語の再現である。偶発的に出来上がった地味な物語ではなく、多くの人々によって効果が実証され、磨かれてきた王道の物語の再現である。フォーリング・ビューティであったり、ボーイ・ミーツ・ガールであったり、ドラゴンスレイヤーであったり、救世の英雄の物語であったりする。それはなによりテーブルを囲むコミュニティが共通の知識として持っているパターンでなくてはならない。さもないと事故を誘発してしまうだろう。このアプローチでは物語はセッションをまとめてゆくために必要な枠組みなのである。
 物語形成型アプローチにおいて物語の主導権はマスターが握っている、必ずしもシナリオに描かれた設計図通りである必要はないが、マスターは展開をコントロール下に置き続けなくてはならない。さもないとセッションは破綻してしまう。PLは円滑なセッション展開と引き換えに、いささかの自由を失ったと言えるのかもしれない。
 さてセッションに積極的に物語性を取り入れることによってセッションにまとまりを作り出そうとする物語形成型アプローチであるが、大別してそれをシナリオの記述によって達成する手法と、システムに物語形成の仕組みを装備する手法とがある。前者は主にグループSNEがとった手法であり、後者は主にFEAR社がとっている手法である。
 グループSNEは水野良氏の小説、『ソード・ワールド』のリプレイおよびシナリオ集などにおいて、セッションその場ではなく準備段階でのマスターによる物語の準備の重要性を説いている。マスターは入念な準備をして、クライマックスで盛り上がるようにシナリオを調整し、プレイヤーに心おきなく楽しんでもらうホストとしての姿勢が求められている。SNEのリプレイはRPG経験者の外にまで広がり、RPGの間口を広げた。
 しかしSNEのリプレイからRPGに入った人々の多くは失望を感じることになったのではないだろうか。読者がリプレイで感じた物語性は「ルール」ブックには記述されていない。ルールブック通りにプレイしても物語は自動的に創起されはしない。SNEは様々な方法で物語性に富んだシナリオの必要性を訴えた。そもそも古典的アプローチにおいても世界設定型アプローチにおいても物語はシステムの内部にあるものではなく、コミュニティが外部から持ち込んだものにすぎない。SNEはそれをシナリオの形でセッションに取り込もうと試みていた。
 多くのSNEのファンがリプレイを楽しみながらも実プレイから遠ざかっていった後も「物語」どうセッションに取り込んでいくかを真摯に考え、一つの解答として作られたのがFEAR社のシステム群である。それまでも物語が自然に形成されてゆく仕組みとしてヒーローポイントやSANチェックなどがあったが、TORGの革命を経て、SNEの出した課題へ答えたのがFEAR系のシステム群である。
 SNEとFEARの相違はシステムの外側にあった物語を内側に取り込む際にとった手法が、シナリオからのアプローチか、システムからのアプローチかの差なのである。
 物語という視点からみると展開提案型アプローチは、意図しない物語が出来上がる世界設定型アプローチというテーゼと、それに対する緻密な物語の形成を目的とする物語形成型アプローチというアンチテーゼの双方を止揚するジンテーゼととらえることができる。
 共通の知識である世界設定を土台にPCが自分のふさわしいことを行う、そしてその結果が全体の物語となる世界設定型アプローチと、共通の物語類型に対する知識を核に物語を展開してゆく物語形成型アプローチに対し、展開提案型アプローチでは共通の知識を必ずしも必要としないところに特徴がある。
 そもそも古典的アプローチ、世界設定型アプローチの登場したころ社会は物語の枠組みに飽いていた。古典的アプローチの売り文句として、自由に結末が決められるとか、主人公の立場に立って別な決断をすることができるなどと言われていなかっただろうか。当時世にあふれていた物語、決まり切ったレール、変更不可能性を感じられた社会秩序……、そのような「決まり事」に飽いていた時代、物語の構造からの「自由」を感じさせてくれたのが古典的アプローチ、世界設定型アプローチであった。
 だが、いきすぎた自由はセッション自体の崩壊をもたらした。その惨状は様々な場で語られているのでここでは繰り返さない。
 何とかセッションに秩序をもたらさなくては……、と、そこで採用されたのが「物語の構造」である。物語は古典的アプローチ、世界設定型アプローチにおいては自然に発生に発生したり、RPGを自らの創作した物語を発信するメディアと考える者たち(水野良氏はそのもっとも有名な人物のひとりだろう)によって語られていた。そのような土壌の上にセッションの混乱を鎮静化するという消極的な理由で採用されたのが「物語の構造」である。また積極的な理由として社会全体の嗜好の変化を挙げることもできる。
 「物語の構造」を成していない物語が「リアリティ」があるのだともてはやされていた風潮がすたれ、「物語の構造を成していない物語」すらも一つの「物語の構造」であるととらえることによって、社会においてもロマンティシズムの復権がなされた。
 サブカルチャーでの例を一つだけあげよう。それまでのロボットアニメの「物語の構造」を打ち破り、「リアル」な物語である『機動戦士ガンダム』を作った富野由悠季監督は、その後も「リアル」な路線、「物語の構造」を成していない路線を追求する。一名「皆殺しのトミノ」とも呼ばれたり、物語展開での必要のない所で主要登場人物を殺したりする。この富野監督の画期として『重戦機エルガイム』と『機動戦士Zガンダム』がある。映画『スターウォーズ』の影響を強く受けた前者は(『スターウォーズ』の存在自体が物語性への回帰を象徴している)、その影響もあって「亡国の王子による王国の復興」という強くロマンティックな物語性を有していた。続く『機動戦士Zガンダム』では、物語性を捨て、「リアル」な路線をとった。しかしその方向性は市場化からの支持されたとは言いがたい。『機動戦士Zガンダム』の失敗は、続編としての難しさ、玩具の売れなくなった市場の変化など様々に語られているが、本論の関心から言えば、社会は『機動戦士ガンダム』以来の物語性の欠如した現実主義から、物語性を重視する浪漫主義へ移行していたのである。この移行はRPGの世界でも時差をもって生じた。
 円滑なセッションの運営すら危ぶまれる行き過ぎた「自由」への反省から古典的アプローチのシステムである『ソード・ワールド』は、その運用の指針やシナリオの記述によりRPGに物語の構造を埋め込んでゆく。SNEには古典的アプローチのシステムを自作の「物語」を発信するメディアとして活用した水野良氏の『ロードス島戦記』があり、「リプレイ」の経験があった。
 『ロードス島戦記』で、あるいは「リプレイ」でRPGに興味をもって始めた方々にとって行き過ぎた自由の結果生じる、パーティ結成時のゴタゴタ(なかなかパーティ結成に至らない)、依頼を受ける受けないのウダウダ(報酬をめぐるアーダコーダ)、行き当たりばったりのシナリオ展開などは時間の無駄にしか感じられなかったのではあるまいか。
 セッションを円滑に進めるためのトラブル回避という理由、そして社会の嗜好の変化という理由により『ソード・ワールド』は物語の構造を導入し、古典的アプローチから物語形成型アプローチへと脱皮したのである。
 その後『TORG』が翻訳され、SNEがシナリオの形でRPGに導入した「物語の構造」をシステムの内部に、メカニズム的に埋め込む手法が紹介された。これにより「ヒーローポイント」が再発見され、また様々な仕組みが主にFEAR社によって開発され、「物語」はRPGにとって不可欠なものとして認識されるようになった。
 かつて愛についてを語り、現在は嫁について語っているある識者は、物語の構造はハッピーエンドのために必要なのだという趣旨の発言をしたことがある。
 RPGにとって物語は、セッションのまとまりを求める内部の事情、物語性の復権が叫ばれる外部の影響があって、その内部に取り込まれた。その結果としてプロローグとエピローグが明確になり、それまでダラダラ続けられることの多かったセッションに明瞭な終わりをもたらした。パッピーエンドをパッピーエンドとして終わらせる手段が発明されたのである。
 物語形成型アプローチにおける物語はマスターとシステムによって用意されるものであった。プレイヤーの側はある程度受け身の立場に立たざる得ない。しかし自ら行動しなければ話が進まない場合も多々あった世界設定型アプローチに較べればセッションのテンポは格段に向上した。物語の構造の自律性に委ねることでセッションが円滑に進行するのである。プレイヤーの世界観は、物語の展開よりもPCの演出に反映され、プレイヤーのリソースもそこに投入された。
 しかしPCの演出ばかりではなく、物語の展開にも積極的に関わってゆくというのもRPGの楽しみの一つである。古典的アプローチ、世界設定型アプローチではシステムをメディアとして自作の物語を展開するマスターがいる一方で、現実の知識あるいは世界設定の知識を駆使したプレイヤーの提案を拾い上げて物語を展開してゆくマスターもいた。後者のセッションは、どちらかと言えばまとまりの欠けたものになりがちであった。どこに着地するかに合意がなく、飽きるまで続くことも多かった。FEARの基準にてらしてみれば事故として退けられるような状況も多々生じた。だがそれが成功した時には自分たちが物語を作り上げたのだという充実感があった。古い愛好者のなかにはその興奮が忘れられずに、時代が変わってもそれを求め続け、他から老害と呼ばれながらも、そのスタイルを変えずにRPGを続けているものもいるだろう。物語形成型アプローチを受け入れられない、嫌悪する方々には、前述のようなセッションを希求する方が多いのではないだろうか。
 だが、プレイヤーの提案をその場で採用し、上手く展開してゆくにはまずマスターの資質が問われ、次にはプレイヤーの協力や相性が、問われるなど人的なイレギュラー要素が多すぎる。
 この人的なイレギュラー要素を極力排し、プレイヤーを物語の展開に積極的に参加させるアプローチが展開提案型アプローチである。
 物語形成型アプローチと展開提案型アプローチの相違の一つはコミュニティ内部の世界観の違いをどう扱うかだろう。前者では演出という面ではPLの世界観は十全に果たされると思われるが、物語の展開という面ではほぼマスターに委ねられているのに対し、後者ではコミュニティの世界観の違いはセッションを通してすりあわされ、その結果として参加者全員の世界観が統合された物語が創られるのである。
 展開提案型アプローチの嚆矢は『トーキョーN◎VA』であると考えられる。このシステムのPCは強力な能力を有しており、物語の構造、物語の自律性すら超越してしまい、容易にマスターのコントロールからはずれてしまう。マスターのコントロールからはずれてしまったプレイヤーたちは落とし所としての、オチの付け方としての物語論を知らず、または無視して、自分の世界観を披露する。『トーキョーN◎VA』の舞台はサイバーパン…、いやアーバンパンクなので、そこには通常の物語の構造など存在しない。こういう事態に対して必要とされるのが、各自の世界観のすりあわせである。
 『トーキョーN◎VA』ではこの世界観のすりあわせが失敗することが多く、関連性のない、各自の世界観の発表会に堕することが多かった。
 展開提案型アプローチと物語形成型アプローチはともに世界設定型アプローチから生まれた双子ということができる。後者は物語を伝えるというメディアとしての性格を、前者は共同で物語を作り上げるという性格を引き継いでいる。また展開提案型アプローチは物語形成型アプローチを分出した世界設定型アプローチの残存とと物語形成型アプローチを止揚したものだとも言えるだろう。
 展開提案型アプローチには物語形成型アプローチで採用された手法が使われている。例えば、今回予告と明確なエンディングというプロローグとエピローグの手法は展開提案型アプローチにおいて世界観のすりあわせの失敗を避け、中途の展開の自由さと、セッションのまとまりを保つ役割を果たしている。このアプローチによって現出する物語は、参加者の世界観のすりあわせの結果、どこかで見たような物語の要素を含みながらも、全体としては全く新しい、参加者全員で編集したものとなるのである。